ノモンハン事件  南進への転機 1939年

2022年8月26日

1939(昭和14)年5月、満州国と外モンゴルの国境紛争から勃発した4か月あまりの戦闘。

ソ連戦車の前を匍匐前進する日本兵 Wikipediaより

この戦闘は局地戦でありながら、武力衝突の規模としては、事実上の国家間戦争といってもいいほどの本格的な近代戦だった。

日本軍は、ソ連の近代兵器の前に壊滅的打撃を受けた。加えて、戦闘目的であった満州とモンゴルとの間の国境線の画定も実現できず、結果的に得るところのない戦争であった。

9月に停戦協定が結ばれ、日本軍の敗戦が確定した。この戦闘で対ソ戦の容易でないことを痛感した日本軍は、その後南方への進出を図ることになる。

当時関東軍は、この戦争をあくまで事件として内密に処理したため、真相は闇に葬られた。

帰還した将兵には緘口令が敷かれ、戦闘に参加した将校を自決させ、作戦を立案した参謀を更迭するなど徹底して敗北を封印した。

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以下、くわしく。興味のある方は、お読みください。

1930年代になると、「ソ連・モンゴル・中国・満洲国(日本)」という構造の中でモンゴル・満州地域における緊張が高まった。

満洲とソ連、満洲とモンゴルの国境一帯は、森林や砂漠が広がる地帯であり、かつてロシア帝国と清朝との間に結ばれた国境を画定する条約の内容は曖昧で、 国境線の不明確な場所が多く存在した。

そして1930年代の中ごろから、日本の関東軍が満洲とモンゴルの国境線を恣意的に動かしたことにより、国境紛争が相次ぐようになっていた。

1931年の満州事変以後、日本は、満洲国内での関東軍の兵員と武器を増強し、モンゴルの国境方面に向かう道路と鉄道を敷設し、航空基地と軍事要塞を建設していた。

同じ頃、ソ連では、日本をファシスト国家であると見なす宣伝活動がはじまり、日本外交の反ソ姿勢が強調されはじめた。

それはその後の日独両国の接近と、1936年に両国が締結した反コミンテルン条約である「日独防共協定」の締結に影響を与えることになる。

1934年頃から、日本軍が満州国とモンゴルの国境地帯にさかんに出没するようになり、モンゴル軍との間に衝突事件が頻発した。

このような日本軍の動向を自国への侵攻の準備と考えたソ連は、満洲国とソ連の国境線の防衛を強化すると同時に、満洲国に接するモンゴルの軍事力の強化につとめた。

その結果、モンゴルに対するソ連の政治・軍事面での影響力が一層強化された。

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一方で日本側も、モンゴルに対するソ連の影響力の拡大は、日本が計画する満洲・内モンゴルへの勢力拡大に重大な影響を与えるものとみなし、ソ連への警戒を強めた。

対ソ戦争に備える軍隊といわれた関東軍にとって、モンゴルは、ソ連に対する軍事行動に影響する戦略上の緩衝地帯であり、関東軍はモンゴルを重要視していた。

こうして1930年代の半ばから頻発した日本軍によるモンゴルへの領土侵犯は次第に拡大し、ついに1939年5月11日、迫撃砲や機関銃で武装した日本軍兵士たちが、満洲西北部のノモンハン付近で、モンゴル国の領土内に侵攻した。

そして国境警備にあたっていたモンゴル軍警備隊に対して、不法越境をしているとみなし攻撃を加え、ノモンハン事件が勃発した。

戦闘は4ヶ月余り続き、日本軍はソ連空軍・機械化部隊の攻撃によって壊滅的な打撃を受け、大敗を喫した。

同年9月16日にモスクワでソ連と日本との間で停戦協定が締結され戦闘は終結した。

そして翌1940年6月の日ソ間の協議によりモンゴルと満洲国の国境が画定され、長年にわたってこじれていた国境問題が解消した。

これにより、日ソ両国の軍事的、政治的緊張関係が改善され、その帰結として1941年4月の日ソ中立条約の締結に到る。

ノモンハン事件での敗北は、日本の政治と軍事に大きな打撃を与えた。その結果、日本軍は北方に向かう方針を諦め、「北から南へ」と方向が転換され、仏印進駐へと向かうことになる。

一方、勝利したソ連は、自国の軍事力を世界に誇示しただけでなく、ドイツと日本に対する両面戦争の危機を回避し、ドイツに対して総力をあげて戦うことが可能になった。

この戦争は、比較的狭い地域の中で行われたが、双方から13万人あまりの兵力と、1,000台余りの戦車および装甲車、さらに約800機の戦闘機が参戦した。

双方の人的損害はおよそ65000人で、そのうち、死者数は約27000人となっている。これらの数字は、この国境での戦闘が「事件」などと矮小化されて表現されるようなものではない大規模な国家間戦争であったことを示している。

 
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昭和前半

Posted by kojiro