サン・フェリペ号事件 1596年
1596年、暴風雨のため土佐国の浦戸に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の処置をめぐって生じた事件。
豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を発布したが、南蛮貿易の実利を重視していたこともあって、宣教師たちは黙認という形ではあったが日本で活動を続けていた。また各地のキリシタンも迫害されたり、その信仰を制限されたりすることはなかった。サン・フェリペ号事件はそのような状況下で起こった。
1596年7月、フィリピンのマニラを出航しメキシコを目指していたスペインのガレオン船(16世紀からスペインなどで貿易に従事した帆船)サン・フェリペ号が、東シナ海で台風に遭い、航行不能になった。
10月になって船は四国土佐沖に漂着した。土佐国主長宗我部元親は船を浦戸湾内へ曳航したが、湾内で座礁し船荷が流出してしまった。
船員たちは船の修繕許可と身柄の保全を求める使者を秀吉の元に送ったが、謁見を許されず、奉行の増田長盛が派遣されてきた。
増田は「スペイン人たちはフィリピンを武力制圧したように、日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない」という秀吉の言葉を告げた。そして、増田らは積荷と船員の所持品を没収し、航海日誌などの書類をすべて破棄したといわれている。
その後、サン・フェリペ号は修繕が許され、1597年4月に浦戸を出航し、マニラに向かう。マニラではスペイン政府によって本事件の調査が行われ、船長らは証人として喚問された。
その後、1597年9月にスペイン使節が秀吉の元を訪れ、サン・フェリペ号の積荷の返還を求めたが、秀吉はこれを拒絶する。しかし、当時の国際法では日本に積荷を没収する権利はなかった。