豊臣秀吉、九州を平定 島津義久・義弘 1587年
1587(天正15)年、豊臣秀吉が九州に遠征し、島津氏を破ってこれを降伏させ、九州全土を平定した戦い。
戦国末期、九州は強力な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されており、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼ぶことがある。
薩摩・大隅・日向の三国を制覇した島津氏は、1584(天正12)年の島原合戦で龍造寺氏を破り、肥後国を領土とした。続いて肥前、筑後も傘下に収めた島津氏は、豊前の大友宗麟と九州制覇をかけて対峙するに至った。
秀吉は、宗麟の要請もあり九州への介入を開始し、島津・大友両氏に和睦を勧告する。さらに島津氏に対し占領地の過半を大友氏に返還する国分(くにわけ)案を提示するが、島津氏はこれらをいずれも無視し、大友氏への攻撃を再開した。
この状況に宗麟は、1586年4月5日大坂城に秀吉を直接訪ね、救援を願い出ている。
その後も島津氏による筑前侵攻は続き、各地で大友氏との壮絶な戦いが繰り広げられた。島津氏は大友側の城を次々と落とすが、大友側も高橋紹運や立花宗茂らが奮闘し、秀吉の援軍を待った。
そしてついに秀吉は九州征伐を行うことを宣言し、40カ国に近い諸国に号令をかけて翌1587(天正15)年3月、秀吉自ら20万を超える大軍を率いて九州入りした。
秀吉が九州に入ってからは、秀吉軍の圧倒的な勢力によって島津勢は瞬く間に薩摩国内への侵攻を許し、島津氏は秀吉の前に降伏した。