小牧・長久手の戦い 羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄連合軍の戦い 1584年

2023年4月30日

1584年(天正12)3月から11月にかけて羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の連合軍が尾張国内で戦った合戦。

織田信雄 Wikipediaより

秀吉は、本能寺の変後、清須会議、賤ケ岳の戦いを経て、信長の後継者としての立場を強めていった。これに対して脅威を感じた信長の次男信雄は徳川家康に支援を求め、家康もこれに応じた。

一方秀吉も、自らの権力を拡大させていく中で、信雄の存在が邪魔になり、その排除を企図し、彼の家老3人を懐柔する。しかしこれが信雄の知るところとなり、3家老は誅殺された。これを機に、秀吉と家康・信雄連合軍の戦いが始まる。

家康・信雄連合は、紀州の雑賀衆や根来衆、四国の長宗我部元親、北陸の佐々成政、関東の北条氏政らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。

家康は、尾張の小牧山に本陣を構え、秀吉は、楽田(犬山市)に本陣を置き家康・信雄連合軍と対峙する。両軍とも砦や土塁を築き守りを固めたため、戦況は膠着状態となった。(小牧の戦い)

先に動いたのは秀吉で、家康の拠点岡崎を攻めるため羽柴秀次(秀吉の甥)を総大将とする別動隊を送るが、その動きを察知した家康も軍を動かし、1584年4月9日に長久手の地で激しい戦闘となった。(長久手の戦い)
この戦いで、秀吉軍は池田恒興、森長可などの有力武将を失い、徳川軍が勝利した。その後、5月1日に秀吉は撤退し、6月12日には家康も清洲に戻り、休戦状態となった。

こうしたなか秀吉は信雄の調略に動き、11月11日、信雄は家康に断りなく単独で講和した。そのため家康は戦いを継続する大義名分を失い、本拠地浜松城に引き揚げ、12月12日に第2子於義丸(結城秀康)を秀吉の養子にすることで和睦した。
こうして秀吉は家康を傘下に加えたが、家康は秀吉の政権下で別格の地位を保ち、のちの徳川政権樹立の足がかりとした。


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Posted by kojiro