簡潔 賤ケ岳の戦い 羽柴秀吉、柴田勝家を滅ぼす 1583年
1583年4月、近江国賤ケ岳(滋賀県長浜市)で、羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。
清州会議終了後、秀吉は丹羽長秀や池田恒興らを懐柔し秀吉陣営を形成する。これに危機感を覚えた柴田勝家は、一方の後継候補であり三法師の後見役である織田信孝や会議から排除された滝川一益と組んで反秀吉陣営を構築した。こうして織田家内部は二分された。
信長後継の座を狙う秀吉と、織田家存続を謳う宿老勝家との軍事衝突は必至の形勢となった。
1582年末、秀吉はついに軍を起こし近江に出兵、勝家の養子柴田勝豊が守る長浜城を攻撃した。北陸は既に雪深かったために勝家は援軍が出せず、勝豊は秀吉に降伏する。次に信孝の岐阜城を囲み信孝を屈服させ、さらに年が明けた正月には、滝川一益の北伊勢を7万の大軍で攻める。
一方、越前北の庄城にあった勝家は、雪のため依然として動くことができずにいたが、ようやく2月末、およそ3万の軍勢を率いて出陣、近江に進軍する。これに対し秀吉も5万の兵で近江に進出し賤ヶ岳で勝家軍と対峙、こう着状態となる。
その後4月、信孝が再度秀吉に反旗を翻し挙兵すると、勝家方の佐久間盛政が秀吉に対し攻撃をしかける。賤ケ岳付近で両軍一進一退を繰り返す中、戦況は盛政の作戦ミスもあって秀吉方に有利に傾く。次第に疲弊していく柴田軍にさらに追い討ちをかけるように、味方の前田利家隊が突如戦線から離脱した。これをみた柴田軍の兵士は動揺し脱走が相次ぐ。ついに柴田軍は総崩れとなり勝家は北の庄城に退却、城に火を放ち妻であるお市の方とともに自刃した。
なお、この年の暮、大坂城が完成している。
【補説】
調略や寝返りは、いかなる戦いでも付き物だが、この賤ケ岳の戦いは、この戦が持つ独特の物語が数多くある。
⓵築城合戦
この戦いは、日本の合戦史上、稀に見る築城合戦だったといわれている。羽柴・柴田両軍によって付城が多数築かれ、その数は大小合わせて20を超える。
勝家方の付城が長期戦に向かない小規模・単純構造だったのに対して、秀吉方は横堀や枡形虎口など、防御を重視した複雑で巧みなものが多かった。前線突破して短期決着を目指す勝家、持久戦に持ち込みたい秀吉という対比が見て取れる。
秀吉は、織田家最強と言われる猛将勝家が率いる軍団と正面からぶつかるのは得策ではないと考え、徹底的に防御を固めたのである。
正面突破が得意な勝家軍が持久戦に苛立ち、強引に突破を図ってくれば、砦で食い止めて撃破するというのが、秀吉の作戦だった。
このため秀吉は、相手が正面突破してくるまで、砦の外には鉄砲を撃つことはもちろん、一人も出てはならぬ、と指令したという。
②野心対忠誠心
賤ケ岳の戦いは、信長亡き後、露骨なまでに天下人への野心を露わにする秀吉と、織田家を愚直なまでに再興しようと腐心する勝家の戦いだった。言わば、野心対忠誠心の戦いだが、言い方を換えれば、攻める秀吉、守る勝家とも言え、勢いに乗った攻める秀吉が勝利した。付城の構造から見る具体的な戦術とは攻守が逆転しているところが面白い。
③前田利家の撤退
勝家側についていた前田利家は、秀吉軍が大垣城から大返しで戻ってきて総攻撃をかけた際、秀吉軍と戦わず近くの府中城に入った。この利家軍の撤退は、勝敗の行方を左右する大きな分岐点であったと言われている。
秀吉の総攻撃を受けた勝家は軍勢の立て直しを図ったが、逃亡する兵が多く、戦の続行は不可能とみて北の庄城に退くことを決断する。
勝家が北の庄城に退却する途中、府中城の利家を訪ねている。
勝家は、利家が昔から秀吉と仲が良かったことを承知していたため、利家を責めることをせず、ただ湯漬けと退却のための馬を所望したという。そして、「御家の存続を図られよ」と言い残し、北の庄城へ引き上げていった。この時、二人の間で他にどういう会話がなされたのか、興味深い。
その後、勝家は利家から預かっていた人質を無傷で前田家に返したと言われている。
④七本槍
秀吉軍が総攻撃を開始したとき、槍を振り回し柴田勢に襲い掛かって戦功を上げた者たちはのちに「賤ケ岳の七本槍」と呼ばれた。福島正則、加藤清正、加藤嘉明、平野長泰、脇坂安治、糟屋武則、片桐且元の7人を指す。
彼らはその後、秀吉の天下統一に力を尽くし、大名へと出世を遂げていった。
彼らは元々身分が低く、秀吉の直属の家臣としてわずかな禄で生計を立てているような者たちだった。
譜代の有力な家臣を持っていなかった秀吉が、子飼いの馬廻衆を出世させて、直臣で自分の周囲を固めたいとの思いから過大に喧伝したために、後世にその名が残ったのかも知れない。
この時の活躍に対して、秀吉は正則に5000石、その他の6人には3000石という大加増を与えている。
⑤お市の方 三人の姫
天正11年4月23日深夜、勝家は妻のお市の方とともに最後の宴を開く。城の外には秀吉の軍勢がひしめいている。
勝家はお市の方に、「城から落ちのびよ」と告げるが、お市の方はこれを拒否する。
一方、陣中にいた秀吉は、勝家に降伏を呼びかけ、攻撃の手を緩めていた。
秀吉はお市の方を助けようとしていたが、城から出てきたのは3人の娘だけで、お市の姿はなかった。
その後、秀吉は最後の攻撃を命じる。攻撃が始まって間もなく、本丸から火の手が上がる。勝家とお市の方は自害した。
城から抜け出した3人の娘たちは、いずれも前夫浅井長政との間の子どもで、浅井氏が滅亡した小谷城落城の際、城から救出された娘たちである。娘たちにとっては、二度目の救出劇であった。その後秀吉が引き取り大切に育てた。
長女の茶々は秀吉の側室淀殿となって、秀吉の子秀頼を生み、豊臣家とともに生きた。次女の初は京極高次に嫁ぎ、豊臣家と徳川家の橋渡しに尽力した。三女の江は徳川2代将軍秀忠に嫁ぎ、後に3代将軍となる家光を生んでいる。数奇な運命を辿ったお市とその姫たちだった。
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