織田信長、足利義昭を奉じて京都に入る 1568年
足利義昭の求めに応じ挙兵した織田信長は、1568年9月京都に入り、当時畿内を支配していた三好勢を京都から一掃した。
応仁の乱(1467−77)によって足利将軍家は弱体化し、政治の実権は幕府の管領である細川氏へ、さらにはその家臣である三好氏へと移っていた。
三好長慶の治世(1550—69)において、三好氏は幕府の実権を掌握し畿内近国の治安維持に務めた。しかし長慶が亡くなると政権内部には動揺が起こり、権力の行方は再び混沌とし始める。
そうした中で、1565年5月19日、室町幕府第13代将軍足利義輝が、京の二条御所で三好三人衆に殺害された。その後、彼らは義輝の従兄弟である足利義栄を将軍候補として擁立し、1568年2月、義栄は第14代将軍に就任する。
一方、義輝の弟足利義昭も、将軍への就任を画策して若狭から越前を経て、美濃で織田信長と出会う。
信長は、義昭の求めに応じて1568年9月7日に挙兵し京を目指した。織田軍は途中で近江の大名六角氏を退けると、同月26日には京都東寺に入る。その後織田軍は三好三人衆のひとり石成友通を勝龍寺城から追い、摂津の三好方であった池田勝正を敗退させるなど、京都近郊から三好勢を一掃する。この間、松永久秀は早々に信長側へ付いている。そして義栄が排され10月18日に、義昭が征夷大将軍に任じられた。
翌1569年1月、信長軍が岐阜に帰った隙に三好三人衆が挙兵し、義昭が滞在していた本圀寺を襲撃する。この時、明智光秀らの奮戦によって信長軍が三好方に勝利し、三好三人衆の政権奪還のための襲撃は失敗に終わる。
将軍となった義昭は、信長の軍事力を背景に京都やその周辺地域の安定を図っていくが、その治政には、義昭に付き従ってきた細川藤孝や明智光秀、そして信長配下の村井貞勝、木下藤吉郎らが関わっていく。