京都で法華一揆 山科本願寺全焼 1532年
室町後期、日蓮宗を信仰する京都町衆の法華(日蓮)宗徒による一揆。
鎌倉時代末、1294年に入洛した日像によって、はじめて京都に法華宗(日蓮宗)がもたらされて以来、法華宗は京都の町衆の間に浸透し、応仁の乱(1467~77)前後には、洛中に本山だけで21か寺を数えるまでに拡大して、京都は「題目の巷」といわれた。
室町後期、法華宗徒は次第に戦闘的な集団となっていき、そのため特に比叡山延暦寺とたびたび衝突し、さらに武装化を進めていく。
法華宗徒は、町の自衛のために団結する町衆や、近郊の法華信者の農民らと結びつき、武器を携え身命を賭して戦う「法華一揆」へと発展していった。
そして1532年、管領細川晴元の支配下にあった京都に晴元と対立していた一向一揆が侵入してくると、晴元は法華一揆に援軍を要請する。これによって一向一揆と法華一揆とが激しく衝突し、法華宗徒が浄土真宗(一向宗)の信仰と軍事の拠点になっていた山科本願寺を焼き討ちした。これによって蓮如により建立されて以来繁栄を極めた山科本願寺とその寺内町は一宇も残さずに全焼したという。