嘉吉の変 赤松満祐、将軍足利義教を暗殺 1441年
1441年、赤松満祐が室町幕府6代将軍足利義教を暗殺した事件。
室町幕府創設以来の功臣だった赤松は、将軍足利義教に疎んじられたのに反発し、義教を自邸に招いて謀殺。満祐はやがて幕府軍に討伐され、一族とともに自刃した。
当初、義教は重臣会議の意向を尊重していたが、やがて専制的な性格を強めていく。1439年の永享の乱で鎌倉公方足利持氏を討ったあと、義教は義満以来の守護抑制策を推し進めた。
翌年、一色義貫、土岐持頼を殺害してその領国を没収、さらに管領家の畠山持国を追放するなど強権を振るい、赤松満祐の弟義雅の所領も没収した。いずれも義教の勘気に触れたとされるが、その勘気の具体的内容は不明である。
処罰されたのは武家に限らず、公家も同じで義教は気に入らない人物の討伐や追放を次々と行い、恐怖政治を行った。公家・武家を問わず、「次は自分の番かもしれない」と戦々恐々としていたという。
義教弑逆はこのように緊迫した状況のなかで起こった。
身の危険を感じた満祐は、結城合戦勝利祝賀のためと称して、義教を京都の自邸に招いて殺した。伏見宮貞成親王は、「看聞日記」で、義教の死を「自業自得の果て、無力のことか。将軍のかくのごとき犬死に、古来その例を聞かざることなり」と記している。