結城合戦 結城氏朝 1440年

2023年4月30日

1440年から翌年にかけて、下総の結城氏朝が永享の乱(1438~39)で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺子を擁して室町幕府と上杉氏に抗した戦い。

結城氏朝 Wikipediaより

永享の乱で実権を握った上杉憲実は、持氏殺害の責を自らに課し、関東管領の職を辞した。そして、憲実の嫡子が成人するまでという条件で、憲実の弟上杉清方を越後から迎えて関東管領代に任命した。

一方、結城氏は直光・基光が安房・下野守護となって勢力を伸ばすにつれて、下野・常陸方面への進出を目ざす関東管領上杉氏との対立を深めていた。また、権勢を増した上杉氏に従わない勢力も多くいた。

1440年3月、氏朝は反幕府・反上杉の勢力を結集し、持氏の遺児・安王丸、春王丸の2子を奉じて挙兵した。

結城方に参加したのは、下野・常陸・上野・信濃の諸氏、上杉軍は上杉一族と上杉が統制する安房・上総・上野・越後などの軍勢、幕府軍は下総・信濃・甲斐の各氏というように、現在でいう北関東・甲信越のほとんどの諸氏が、両派に分かれて合戦に参加している。また中には分裂して両派に参加している一族もあった。

これは当時、全国的に、一族を束ねる惣領家と独立をはじめた庶子家との対立があったからで、社会の仕組みが大きく変わってきていた。

そして一族内の対立も足利派と上杉派に分かれての対立という形になって、関東全体を巻き込んだ戦乱へと拡大していった。

結城軍は結城城での籠城戦に持ち込んだが、約1年に及ぶ戦闘の末、1441年4月16日結城城は落城、氏朝父子は自害、安王丸、春王丸も捕らえられ京都に送られる途中美濃で殺された。

合戦後も反上杉の動きは収まらず、対立の火種は各地でくすぶり続けていった。



室町・織豊

Posted by kojiro