永享の乱 足利持氏、室町幕府に背く 1438年
1438年から翌年にかけ、鎌倉公方足利持氏が室町幕府に背いた事件。
幕府と鎌倉府、すなわち将軍家と鎌倉公方の関係は両府の成立以来、必ずしも良好とはいえなかった。また、両者の間に立つ関東管領上杉氏と、鎌倉公方足利氏の間も微妙な関係にあった。
持氏は、本家にあたる室町幕府将軍家と事あるごとに対立していた。
1417年に起きた上杉禅秀の乱を鎮圧したのちに、持氏は禅秀に加担した武家を討伐したが、彼らは幕府に直属する武士であったことから4代将軍足利義持との関係は険悪なものとなった。
また将軍継嗣問題の際、持氏は次期将軍位を狙って義持の猶子になることを望んだが拒絶され、足利義教が6代将軍に就くとこれに反目した。
また、鎌倉府の管轄外である信濃国の小笠原氏と村上氏の対立に介入しようとして、関東管領・上杉憲実によって阻止されている。
さらに、持氏の嫡子・賢王丸の元服に際し、持氏は幕府の慣例を無視する行動を取り、公然と将軍に反抗する姿勢をみせた。
憲実はこれを諫めたが、持氏はこれも無視し元服式を強行する。さらにはこの式に際して持氏が憲実を成敗するという風聞が流れたため、警戒した憲実は病気と称して式への出仕を見送った。そして憲実は鎌倉を離れ、所領の上野国へ帰っていく。
これに対し持氏は、配下に憲実の討伐を命じ、翌日には自らも出陣した。
幕府はこのような持氏の動きに対し、持氏討伐を決め、朝倉、土岐、小笠原などの諸氏に出陣を命じた。
その結果持氏軍の多くの将兵は幕府側に移り、鎌倉を守っていた三浦時高も離反したため、持氏は降参し鎌倉の永安寺に幽閉され、1939年2月、自害に追い込まれた。
この乱により、鎌倉公方による関東支配は事実上終わりを告げた。
しかし、上杉氏に従わない勢力は多く、主を失った関東は混乱へと陥っていく。それは足利派と上杉派の対立へと発展していくことになった。