観応の擾乱 経過 第1幕 足利直義と高師直の対立

2023年4月30日

室町幕府の初期、足利尊氏の弟・直義と足利家の家老的役割を担った高師直の対立が次第に表面化していった。

従来は足利尊氏といわれたが、現在は高師直説が有力 Wikipediaより

室町幕府草創期は、足利家の家宰的役割を担った執事の高師直が将軍足利尊氏を補佐し、尊氏の弟足利直義が政務・訴訟を担当する二元的な体制を取っていた。
直義は、荘園や経済的権益を武士に押領された公家や寺社からの訴訟を扱う事が多かったが、鎌倉時代の執権政治を理想とし、従来からの制度・秩序の維持を重んじた。

一方、武士を統率する師直は、従来の秩序に捉われることなく権益を獲得しようとする武士側を擁護する事で軍事面を掌握しており、その立場の違いから必然的に両者は対立する事になる。

南北朝時代の初期、南朝方の北畠顕家・新田義貞らを討伐した高師直・師泰兄弟らの戦功は目覚ましかった。

1339年に後醍醐天皇が没し政局が落ち着くと、師直の勢力はその武威を発揮する機会が減じ、直義の法による穏健な政道が主流となった。

しかし、1347年、京都奪還を目指して蜂起した南朝方の楠木正行討伐に、直義派が向かうが失敗に終わる。代わって派遣された師直・師泰兄弟は、翌1348年四条畷の戦いで南朝軍を破り、更に南朝の本拠地である吉野を陥落させた。
この結果、幕府内で直義の発言力が低下し、師直の勢力が増大、両派の対立に一層の拍車がかかっていく。

勢力挽回のために直義は1349年6月、尊氏に師直の執事罷免を要求した。尊氏はこれを受け入れる。

これに対して師直は直義を討つべく8月13日、直義が逃げ込んだ尊氏邸を包囲し、直義の直臣上杉重能、畠山直宗の身柄引き渡しを要求する。
事態打開に禅僧夢窓疎石の仲介もあって、重能・直宗の配流、直義が出家し幕政から退く事を条件に、師直は包囲を解いた。この結果、直義に代わり、当時鎌倉にいた尊氏の嫡子義詮が政務統括者となった。
同年11月に義詮が入京し、12月に直義が出家して事態は一端治まった。

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記事参考:jiyodan.exblog.jp

室町・織豊

Posted by kojiro