新婦人協会発足 平塚らいてう 1920年
大正時代に婦人の社会的・政治的地位の向上を求めて活動した婦人団体。
青鞜社を主宰した平塚らいてうの呼びかけに、市川房枝、奥むめおらが参加して1920(大正9)年3月に結成され、会員は400人を数えた。
綱領として、(1)男女の機会均等、(2) 男女の価値同等観の上に立った男女の差の承認、 (3) 婦人、母、子供の権利の擁護、などが掲げられた。
活動は治安警察法第5条(女子の政治活動禁止条項)の修正、婦人参政権要求、花柳病(性病)男子の結婚制限に関する請願活動などであり、活発な活動を展開した。
また、機関紙『女性同盟』を発刊して、女性の政治的・経済的・社会的地位の向上に努めた。
しかし、赤瀾会の山川菊栄は、それらの運動をブルジョア的な限界を持つものと批判し、協会内部の意見の不一致もあり1922(大正11)年12月解散した。