米騒動 全国で約70万人が暴動 1918年
シベリア出兵を当て込んだ米の投機的買占めの横行により米価が急騰すると、1918(大正7)年7月の富山県での騒動をきっかけとして、全国に広がった大騒擾のこと。
1914年に勃発した第一次世界大戦は、日本経済に好景気をもたらした。西欧列強がアジア市場から後退したためである。
日本の綿織物などが求められるようになり、また、アメリカ向けの生糸の輸出も増えた。さらに、造船・鉄鋼などの重工業をはじめ海運業も活況を呈し、日本経済は「大戦景気」と呼ばれる好景気を迎えた。
しかし一方では、大幅な輸出拡大で国内の物資が不足し、急激なインフレが進行した。
物価の高騰に対して、賃金の上昇が追い付かず、庶民の生活水準は向上しなかった。
特に深刻だったのが米価の高騰で、工業の急速な発展に伴い、都市人口が増加した結果、米の需要が急激に増加していた。
さらに1917年に「ロシア革命」が発生しシベリア出兵のニュースが流れると、軍需米の大量需要を当て込んだ商人や地主による投機的な買い占めや売り惜しみが続出し、米価は天井知らずの大暴騰となった。
そして1918年7月、不満を募らせた富山県の漁村の主婦たちが地主や米商人の家に押しかけて米の安売りを要求した。その後新聞報道に触発されて、全国で約70万人が暴動に参加した。
寺内正毅内閣は新聞報道を禁じ、警察や軍隊を動員して弾圧を図ったが、責任を追及する世論の前に総辞職した。
この騒動は自然発生的なものであったが、大衆行動の効果を教え、その後の社会運動を活発にすると同時に、本格的政党内閣である原敬内閣の成立を促したという点で、意義のあるものとなった。