日露戦争 朝鮮・満州の支配をめぐる戦争 1904年
日本とロシアが朝鮮と満州の支配をめぐって戦った戦争。
1904(明治37)年、日本の旅順攻撃に始まり、翌年の奉天会戦、続いて日本海海戦で日本が勝利を収めたことによって軍事上の勝敗はほぼ決まった。
1905(明治38)年9月にアメリカのポーツマスで講和条約が結ばれ、日露戦争は終結した。
北清事変後、満州を占領していたロシアは、日英同盟の成立を受けて満州からの撤兵を約束したものの、依然として駐留を続けていた。
日本はロシアとの交渉を数次にわたって行ったが妥協点に達せず、日英同盟によるイギリスの支持を背景に仁川沖を奇襲しで戦争が開始された。
開戦後約1年経った1905年1月、日本はロシアの重要拠点・旅順を陥落させる。
続いて奉天会戦でも勝利すると、5月、日本海海戦で、ヨーロッパから遠路回航してきたロシア海軍のバルチック艦隊を日本の連合艦隊が全滅させた。
日本は連勝していたが国力は限界に達しており、またロシアも国内で革命が起こって戦争の継続が困難になったため、両国はアメリカの斡旋によって、1905(明治38)年9月、アメリカのポーツマスで日本の小村寿太郎とロシアのウィッテが講和条約(ポーツマス条約)に調印し、日露戦争が終結した。
しかし条約締結後、賠償金の支払いがなかったため、日本国内では戦争のための増税に耐えた国民が政府を糾弾して暴動となり、日比谷焼き打ち事件などが起きた。
ちなみに、政府は日露戦争の戦費を賄うため、増税に加えて外債を発行、英米から資金を調達しており、戦争後もその償還のために増税が継続され、人々の生活は困窮を極めた。