社会運動の展開 平民社を組織(1903年)

2023年5月1日

労働運動は治安警察法による弾圧を受けながらも、日露戦争前後の社会不安が激化するなかで社会主義思想と結びつき、一時的に高まった。

日露戦争が避けがたい情勢になると、「万朝報」の創刊者である黒岩涙香は、当初非戦論を唱えたが、1903(明治36)年、主戦論が国民多数の声になると、その主張を変えた。

「万朝報」の転向によって、同社記者で社会主義者の幸徳秋水と堺利彦は退社し、安部磯雄・木下尚江・片山潜らと協力して、平民社を組織した(1903年)。そして、週刊「平民新聞」を発行して反戦運動を展開した。

キリスト教の立場から内村鑑三が平和を説いた。文学の面では、明星派歌人の与謝野晶子が「君死にたまふこと勿れ」の反戦詩を書いた。

日露戦争後には、造船所や官営の軍需工場を中心に、労働者が賃上げを要求して。労働運動が盛んになった。

平民社に集まっていた社会主義者は、解散後いくつかの派に分かれていたが、労働運動の高まりを背景に合同して、1906(明治39)年、第1次西園寺内閣のとき日本社会党を結成した。

日本社会党は、国法の範囲内で社会主義を主張する、わが国最初の合法的社会主義政党であった。

政府は、1907(明治40)年、治安警察法によって同党を解散させた。そして、1910(明治43)年、大逆事件が起こり社会主義運動は、「冬の時代」に入っていった。

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明治・大正

Posted by kojiro