第1次日英同盟協約締結 ロシアの極東政策に対抗 1902年
1902(明治35)年1月30日、ロシアの極東政策に対抗するため、日本とイギリスの間に結ばれた同盟。
ロシアは北清事変を契機として満州を事実上占領し、独占的権益を得ていた。
日本は、韓国に隣接する満州がロシアの支配下に入れば、韓国における権益が脅かされるため、ロシアとの協調路線の変更を模索し始める。
一方イギリスは、強大な陸軍を擁するロシアの南下を警戒し「栄光ある孤立」を捨てて日本に接近した。
日本の政府内では、元老伊藤博文らが「満韓交換」による対ロシア妥協の道を模索する日露協商論もあったが、山県有朋や桂太郎首相・小村寿太郎外相らは、イギリスと同盟して、ロシアから実力で韓国における権益を守る対露強硬方針をとり、日英同盟協約を締結した。
その主たる内容は、
(1)清国における両国の利益と、韓国における日本の利益の承認
(2)一方が第三国と交戦の場合、他方の厳正中立
(3)一方が2国以上と交戦の場合、他方の参戦義務などであった。
この日英同盟に対してロシアは、3回に分けて満州から撤兵することを約束したが、第1回撤兵を実行しただけで、以後は逆に南満州に兵を増強した。