征韓論 西郷隆盛、大久保利通ら内治優先派に敗れ下野 1873年

2023年5月4日

明治初期、新政府内部で唱えられた朝鮮に対する侵略の主張のこと。

征韓議論 Wikipediaより

日本と朝鮮は室町時代から朝鮮通信使の往来があり、対馬藩を通じて国交も継続されていた。

明治新政府は成立以来、これまで通り朝鮮と国交の継続交渉を求めたが、欧米列強に対する勝利で対外強硬路線をとる朝鮮に交渉を拒否される。

日本は繰り返し交渉使節を送るが朝鮮がこれに応じないため、政府内でも征韓論が強く主張されるようになり、閣議で朝鮮派兵が議論されるようになった。

板垣退助らは強硬出兵論を唱え、西郷隆盛はまず自分が使節として朝鮮に渡り、出兵は交渉決裂後にすべきだとした。

1873(明治6)年8月17日に閣議は一旦西郷派遣を決定したが、同9月13日欧米視察から帰国した岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らは、内治優先などを理由に朝鮮派兵はもとより西郷の派遣にも反対の姿勢を示した。

これにより征韓派は敗れ、西郷隆盛以下副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平らは直ちに辞職下野して(明治6年の政変)、政府と対立した。のち征韓派は自由民権派と士族反乱派に分化した。

【補説】

岩倉具視や大久保利通と対立して下野した人々は、新政府の政策に不満を持っていた不平士族と結び付き、1874(明治7)年に江藤新平、島義勇らが率いた佐賀の乱、前原一誠に率いられた萩の乱、そして1877(明治10)年に西郷隆盛率いる旧薩摩藩士を中核にした西南戦争が勃発し、日本は内戦状態になる。

これら一連の不平士族の乱は、政府軍によって抑え込まれるが、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣らが起こした自由民権運動は、その後紆余曲折を経て政党政治の誕生と帝国議会開設へと向かうこととなった。

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明治・大正

Posted by kojiro