承和の変 藤原良房が伴健岑・橘逸勢を追放 842年
842年に藤原良房が伴健岑・橘逸勢を追放した事件。藤原北家が摂関政治体制をつくり上げる出発点となった。
中納言藤原良房は、皇太子恒貞親王を廃し、妹順子(じゅんし)の生んだ道康親王(第55代文徳天皇)を皇太子にして皇室との関係を深めようと画策していた。
842年、嵯峨上皇が没すると、伴健岑(こわみね)と橘逸勢らが謀反の疑いをかけられ突然逮捕された。健岑、逸勢は、それぞれ隠岐、伊豆へ配流となり、恒貞親王は皇太子を廃された。
こうして良房は名族大伴氏、橘氏の勢力をそぐとともに道康親王の立太子を実現し、自らも大納言に進んだ。