安政の大獄(1858年)・桜田門外の変(1860年)

2023年4月30日

1858(安政5)年から翌年にかけて、大老井伊直弼が尊王攘夷派に対して行った弾圧。その後、桜田門外で井伊は水戸浪士らの手で殺される。

井伊直弼 Wikipediaより

アヘン戦争(1842年)で清がイギリスに敗れて以来、外国の脅威がいよいよ強まるなか、太平の眠りを覚ますペリー来航(1853年)となる。幕府は200年以上にわたる鎖国を棄て開国へと政策を転換した。

幕府は、アメリカとの和親条約調印の際、従来の方針を改め朝廷への報告を行い、諸侯の意見を求めるなどしたが、それは朝廷の権威を高め、諸大名の発言力を強めるもので、相対的に幕府の権勢を弱める結果となった。

大獄の原因となったのは、将軍の後継者問題と条約締結時の勅許をめぐる政争であった。ハリスから通商条約の締結を迫られていた頃、幕府では将軍継嗣問題が起こった。越前藩主松平慶永(春嶽)、薩摩藩主島津斉彬らは、英明な一橋慶喜(水戸・徳川斉昭の子)を推し(一橋派)、血統重視の立場から紀伊藩主徳川慶福を推す紀州派と対立した。

この頃、幕府が条約締結へ向かうのをみて、その阻止のため春嶽ら有志大名、尊攘派の志士・脱藩浪士らは、朝廷への働きかけに奔走するようになる。

1858(安政5)年、南紀派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任すると、鎖国攘夷を要求していた孝明天皇の勅許を得ず、通商条約の調印を強行する。同時に、慶福を将軍の後継とした(14代将軍徳川家茂)。

井伊の専断に孝明天皇は怒り、天皇を中心に国をまとめようとする「尊王論」や外国の勢力を排除しようとする「攘夷論」が高まっていった。さらに、一橋派をはじめ諸藩士や公家の中から、幕府を非難する動きが強まった。これに対して井伊は、彼らを徹底的に弾圧、処罰した。

徳川斉昭、松平春嶽らを謹慎処分、京都に潜んでいた梅田雲浜をはじめ志士たちを投獄した。また、吉田松陰、頼三樹三郎、橋本左内など100名以上を捕縛し、うち8名を斬首に処した。追及は朝廷内にも及び、宮家、公卿の尊王派を江戸に護送し断罪。これによって井伊は反対派を一掃した。

この大弾圧は後の桜田門外の変(1860年)を誘発し、井伊は水戸浪士らの手で殺される。

この事件により幕府の威信は失墜し、公武合体へ幕府は政策を転換した。

ちなみに朝幕関係でいえば、天皇が幕府の思う通りに行動しないなどということは、幕府にとっては予想外の出来事であり、そもそも幕政に関し幕府が天皇の許可(勅許)を得ることはなかった。

江戸

Posted by kojiro