江戸幕府(17世紀初~中)・外交貿易政策
⓵朱印船貿易の時代
朱印船とは、海外渡航の許可証である朱印状をもった貿易船のことで、豊臣秀吉の時代から江戸時代初期まで活躍した。
朱印船の主な行先は、東南アジアの各地で、現在のフィリピン・ベトナム・カンボジア・インドネシアなど。
東南アジアにはオランダ・東インド会社の船も来航しており、ヨーロッパからの輸入品を取り扱うこともあった。
各地には、日本人の渡航者がそのまま住み着いた日本町ができ、江戸時代初期までは海外との活発な経済活動があった。
②奉書船貿易の時代
しかし、朱印状の交付は次第に特定の大名や幕府と関係の深い豪商にしか認められなくなっていく。そのため、各地の大名や幕府の家臣の中には、朱印状を持たずに無断で貿易をする者が出てくるようになった。
また、1628年にはタイで朱印船がスペイン船に攻撃される事件が起こる。幕府はこれを将軍の権威が傷つけられたと捉えた。
このような事態に対処するために、幕府は1631年に朱印状を廃止し、その代わりに老中が連名で署名した奉書を交付するという制度を始めた。
貿易船は、この奉書に基づいて長崎奉行が発行した渡航許可証を持つことが必要となった。こうした貿易船を奉書船という。
③キリシタンの増加
江戸時代初期には、朱印船貿易制度の崩壊とは別に、もう一つの問題があった。それは国内におけるキリシタンの増加である。
キリスト教は1549年にフランシスコ・ザビエルが来日して以来、西日本を中心に広まっていった。しかし、その教えが封建制にそぐわないと考えた豊臣秀吉によって、1587年に宣教師を追放するバテレン追放令が出される。さらに1596年のサン・フェリペ号事件の後、宣教師と信徒計26人が処刑された。このようなキリシタン弾圧の方針は、江戸幕府も受け継ぐことになる。
1613年に全国に禁教令を出し、キリスト教の信仰を禁止した。
そして、1637年の島原の乱以降は、キリシタン弾圧はさらに激しくなり、踏絵や宗門改など次々と対策が打たれていった。
一部の信者が隠れキリシタンとして残るが、多くの信者はキリスト教を捨てざるを得なかった。
④海外渡航の禁止と外国船来航の制限
このように、幕府は江戸時代初期に朱印船貿易制度の崩壊とキリシタンの増加という二つの問題に直面していた。
これに対応するため、幕府は1633年に奉書船以外の海外渡航と海外在住5年以上の者の帰国を禁止した。さらに、1635年には、すべての日本人の海外渡航と海外在住者の帰国を禁止した。これが海外渡航禁止令と呼ばれるものである。無断で帰国した者は死刑にするなど厳しい罰則が定められた。
こうして日本人は海外に進出することがなくなり、海外との交易は日本に来航する外国船を通して行われるだけとなった。
また、東南アジア各地の日本町に住んでいた日本人は帰国することができなくなり、そのまま見捨てられた。
1639年にはポルトガル船の来航が禁止され、ヨーロッパの貿易船はオランダ船だけになった。さらに、1641年には平戸のオランダ商館を出島に移転した。
これによって、江戸時代の海外貿易体制が確立した。