500字日本史
歴史は、過去の様々な事件や事象に関わった「人」の記録です。そして社会は「人」によって作られています。歴史はそれを学ぶことで社会を考える手がかりを与えてくれるものだと考えます。
何より、偉業を達成した人の記録も、志半ばで倒れた人の記録も私たちに痛切な感懐を残すものです。
その瞬間、私たちは現在の状況が過去の歴史によって作られたものであることに気づきます。そして次には、いまの私たちが未来の歴史を創造する主体であるということに思い至るのです。つまり、過去の歴史は、現代の私たちが自らの行動を選択するよすがとなるものです。
さて、ある歴史学者が、次のようなことを言っています。
『ある時期の成功の経験は人々の慢心を育てる。人々が失敗を認める率直さを持たなければ同種の失敗が繰り返される。』
古くは蘇我氏に始まり、中世の信長・秀吉といったいわば権力の頂点にいたこれらの人たちも、一言でいえば慢心から高転びに転んだ人たちでした。
また社会全体では、日清・日露の両戦争に勝ち誇った私たちの国がそうでした。慢心の結果、中国大陸やインドシナ半島で多くの失敗を重ねたにもかかわらず、失敗を認める率直さを持たないまま、無謀なアメリカとの戦争に突き進んでいきました。そうして多くの悲劇を生んでしまいました。
私は知人と話をしていたある時に、ふと気が付いたことがありました。
「我々の世代は、戦争や内乱がなかった実に恵まれた時を過ごしてきたのだ」ということです。少なくとも組織化された兵士の銃口が火を噴き、人が死んでいくという不安を覚えることはありませんでした。近代になって以来、軍靴の音を聞いていない最初の世代であり、それが今も続いていることが貴重なことだと思います。これを後の世代に繋いでいかなければなりません。
過去の日本の歴史が現在の私たちにどのような問題を投げかけているかを考えたいと思い日本史をもう一度、勉強し直すことにしました。歴史を虚心に学び直すことは自らの社会観や歴史観を見つめ直すことになると思ったのです。
ここまでは、大上段に構えたことを言ってきましたが、要するに日本史をもう一度勉強してみようと思ったのです。そこで日本史の事件・事象を簡潔に説明する作業を始めました。
蘇我氏に始まり、サンフランシスコ講和条約で日本が主権を回復したところで終えています。自分の勉強のために始めた記述でしたが、書き溜めるうちに次第にこれを多くの人と共有したいと思うようになり、このサイトを立ち上げました。
ここでの記述は、簡潔さを心掛けました。「この事件は、つまるところ、どういうことだったのか」という自らの問いに答えたものです。簡潔に、とはいえ原因や結果、その後の影響についてもできる限り記述しています。
このサイトは、即席の知識を追求したものに過ぎないとの誹りを受けるかも知れません。
しかし、「建武の新政」を知らなければ、室町幕府の成立は分かりません。また、「王政復古の大号令」の知識がなければ明治維新のその後の過程を追うことはできません。
高校生の皆さんは勉強の整理に、社会人の方々は歴史の学び直しの入り口として、それぞれ役立てていただければ幸いです。
興味のある事件・事象については、その「意味」をどうかご自分で深く深く追究してください。
私が歴史を学び直していく過程で、興味を持った人物を二人挙げてみたいと思います。
一人目は、石橋湛山です。
ジャーナリストを経て政治家となり、昭和31年12月首相に就任しましたが、病気療養のため翌年2月に辞任をしています。
湛山は、日本が満洲事変から日中戦争に突入していくとき、軍部とその宣伝役に堕落した新聞各紙に対し、一人その武力発動を批判し変節することのなかった人です。
1931(昭和6)年の満州事変で、関東軍は南満州鉄道(満鉄)の爆破は、中国人がやったと非難し、自衛のために軍を動かしたと説明しましたが、当時の新聞はそれをそのまま支持します。しかし線路を爆破したのは日本軍人でした。
当時の新聞は紙面で軍の武力発動を煽り、世論は戦時体制一色となりました。その中で湛山は「中国全国民を敵に回し、引いては世界列強を敵に回し、何の利益があるか」と孤高の論陣を張り続けました。
石橋湛山といえば「小日本主義」「反ファシズム」です。
湛山は、朝鮮・台湾・満州などの植民地・権益の放棄を主張します。帝国主義的膨張政策である「大日本主義」を非難して、国際協調と自由貿易に基本を置いた「小日本主義」を唱えました。そして「いかなる民族といえども、他民族の属国たるを愉快とするごとき事実は古来ほとんどない」と植民地の人々の心情に心を寄せます。
平和・民権・自由主義の論陣を張った湛山は、言論抑圧で国民の視野が狭まり、極端な方向へ進むことに警鐘を鳴らしました。
鎌倉時代に、北条泰時という武将がいました。3代執権です。御成敗式目という武家最初の法典を作った人です。
この人は、権力の行使に「抑制的」だったように思います。権力を持っているにもかかわらず、その権力を自らの手で縛るような策を行っています。たとえば、連署の設置により自らの独裁を封じ、合議制の採用によって共和的な政権運営を行い、御成敗式目を制定し恣意的な判断を排する、という施策です。
つまり、執権・連署、評定衆からなる「評定」会議を幕府の最高機関とし、重要事項に関しては、評定会議で審議をつくし、意見をとりまとめた上で、執権と連署が判断を下す。そして、主君たる鎌倉殿に最終判断を仰ぐというものです。そのことが執権の役割であると自らが規定したのです。
もちろん征夷大将軍ではなく、執権という微妙な立場だからという考え方もあると思いますが、こんな面倒くさいことを、よくぞこの時代の権力者が行ったものです。
そして、御成敗式目を「人の身分の高下にかかわらず、偏りなく裁定されるように」定めました。
民主的な政権運営と法治主義に基づく裁判制度を確立した北条泰時という政治家は、「道理」の人と言われていますが、私は同時に「公」のために尽くした「無私」の人であったと思います。
石橋湛山、北条泰時、ここに挙げた二人は、威勢のいい言説が少数意見を封じ込むということのないように、進むべき道を照らしているような気がします。
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